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服部半蔵の正体について徹底調査!浮かび上がった驚きの人物とは?

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服部半蔵の正体について徹底調査!浮かび上がった驚きの人物とは?
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服部半蔵はっとりはんぞうという名前を聞いたことがありますか?

きっと一度は耳にしたことがある名だと思います。

イメージとしては「すごい忍者だった」という感じではないですか?

私はこの記事を通して詳しく調べてみるまで「忍者の代表的な感じ?」というくらいにしか思っておりませんでした。

これは調べてみてわかったことなのですが、忍者として活躍したのは実は室町時代の服部保長のみだったということは知ってますか?

びっくりではないでしょうか。

このように忍者であったがためにたくさんの謎に包まれた服部半蔵。

今回は服部半蔵の正体、またどのような人物だったのかということを調べてみました。

「服部半蔵」は通称だった!

服部半蔵というのは実は通称だったということは皆様ご存知でしょうか。

どういうことかというと、歌舞伎の世界などと同じように半蔵という名前が受け継がれていく感じだったそうです。

なので、服部半蔵というと特定の一人を指す名前ではなかったのです。

そのため、服部半蔵の家系は12代まで続いたと言われております。

また、忍者のイメージがかなり強いのですが、実は忍者だったのは初代のみで2代目以降についてはそうではなかったと言われております。

ただ、2代目以降も伊賀忍者の血はしっかり受け継いでいたようですね。

ここまででもかなりイメージと懸け離れたのではないでしょうか。

ただ考えてみたら忍者としてだけで生きていたのならあまりにも有名すぎますよね。

隠密でもなんでもなくなってしまいます。

服部半蔵とは

さて、歴代の服部半蔵とはどのような人物だったのか。

初代:服部半三
伊賀出身の忍者で、室町幕府12代将軍である足利義晴に、続いて松平清康に仕えました。
いつ頃亡くなったのかは不明。

2代目:服部正成
服部半蔵の家系で有名なのは2代目です。
徳川家康に仕え、忍者部隊を率いた長であったと言われております。
1596年11月4日に亡くなられた。

この忍者部隊(隠密部隊)今でいう特殊部隊ですね。

このような部隊を作ったのは世界で初めてと言われ、この部隊を作り上げたからこそ徳川家は天下統一を成し遂げたと考えられています。

3代目:服部正就
伊賀同心200人の支配を引き継いだ。
ただ、父の代から確執があったため支配の役目を解かれることとなりました。
後に、大坂の陣で行方不明なり高野山で葬儀のみ行われたそうです。

4代目:服部正重
2代目の次男で3代目の弟。
徳川秀忠の小姓や家康の近侍を勤めた。

そこから家系は続いていき、12代目が服部半蔵の最後の人となりました。

有名なのはこの初代と2代目ですね。

服部半蔵は徳川十六神将にもなっており、「鬼半蔵」の異名があったそうです。

このように服部半蔵は徳川家と深い関わりがあったことがわかりますよね。

さてここからは、とうとう服部半蔵の正体にせまっていきたいと思います。

服部半蔵を1人として計算はできないのですが、実は服部半蔵は歴史上の有名人!○○ではないのかという説が囁かれています。

ここから服部半蔵の正体について詳しくお話ししていきたいと思います。

服部半蔵は実は…

なんと、、、

松尾芭蕉と同一人物と考えられてます。

え?あの松尾芭蕉?有名な本書いた人だよね?

レベッカ

そうなんです。あの有名な誹諧師です。

著者

なぜ松尾芭蕉と同一人物と考えられているか。

実は服部半蔵と松尾芭蕉とでたくさんの共通点や、松尾芭蕉が残した奥の細道の内容に矛盾もあるのです。

まず、生きた年代的には服部半蔵4代目が松尾芭蕉なのではないかと考えられています

また、既に歴代で天下統一を助け、年齢を重ねて戦うことも少なくなってきた時に服部半蔵はあるお願いをしました。

「私に自由をください。そして、新しい名前で全国を旅させてください。」

快く「いいだろう。」と返事をもらった服部半蔵は松尾芭蕉と名前をもらい、歌を謳うことが好きだった服部半蔵は全国を旅しながら誹諧師として様々な本や詩を残していきます。

ここで松尾芭蕉とはどのような人物なのか、改めて紹介していきます。

松尾芭蕉とは

江戸時代の誹諧師
伊賀出身
代表作は「奥の細道」
江戸を発ち、東北、北陸をめぐり大垣まで旅した紀行文
1694年11月28日に亡くなった

これは余談ですが、松尾芭蕉はキリシタンだったようです。

弾圧されたキリシタンの悲しみを俳句で詠んだということが知られています。

なぜ同一人物と言われるかというと松尾芭蕉と服部半蔵には共通点や奥の細道の内容に矛盾点がかなりあったからです。

まず、服部半蔵と松尾芭蕉は同じ伊賀出身ですね。

そして、奥の細道の中で内容の矛盾点があります。

あの時代ではかなり高齢とされていた松尾芭蕉ですが、(この時代では平均寿命が50歳だったが松尾芭蕉はその時46歳だった。)奥の細道の内容を確認すると1日の移動距離は48kmだったという内容になっています。

これは1日で少なくとも9時間半は休みなく、歩き続けなくてはなりません。

そんなことは寿命が50歳と言われていた時代に46歳の人が歩いていたなんて、普通ではありえないですよね。

この話から松尾芭蕉はそもそも特殊な訓練を受けた忍者だったという説がでてきたのです。

そしてもう一つの矛盾は全国の関所をフリーパス状態で通過できていたということ。

この時代はかなり交通規制が厳しく、奉公所や城に奉公している有名な人物であったも通行手形や、公式文書がないと通ることができなかったのです。

松尾芭蕉は厳しいと言われている関所もいとも簡単に通ったと言われています。

考えてみてください。

明確な理由や、手形、文書などがないと通れないとされていた関所を名前も知れ渡っていない松尾芭蕉が、「俳句を詠み歩く旅の最中です。」と伝えかなり怪しい理由と併せて怪しい身分に見えるものが通過できていたことがおかしいことなのです。

このことから、松尾芭蕉は徳川幕府の命で各地を歩き回って報告していく必要のある人物だった可能性があります。

実際、服部半蔵は諸大名の内情を探ったり江戸の治安維持のため日本各地を歩き回っていたのです。

そのことからも松尾芭蕉と服部半蔵は同一人物と考えられますよね。

松尾芭蕉が残した童話「かごめかごめ」

いきなり童話の話をなぜしているのかというと、実はこのかごめかごめの童謡を全国に広めたのは松尾芭蕉と言われているのです。
このように深く関わりがあるのです。

実はかごめかごめを全国へ広めたことも徳川家の命と言われているのです。

それは何かというと「徳川埋蔵金の在処を伝える譜」と考えられているからなのです。

歌詞を分析してみました。

「かごめかごめカゴの中の鳥」
ここからわかることはカゴメとは籠の目のことで、六芒星の形になっています。
鳥=鳥居=神社
徳川家の所緑のある建物が日本には数多く存在し、その中で徳川家を神格化されて作ったとされる

  • 日光東照宮
  • 江戸城
  • 駒府
  • 土岐
  • 明智神社
  • 佐渡金山

この場所を線で結ぶとなんと六芒星になるのです。

「いついつでやる夜明けの晩に鶴と亀が滑った」
夜明けとともに日が昇り光が当たるとできるのは陰です。
夜明けの晩とは朝日が昇り陰ができた場所のこと。
上記6つの鳥居のある神社、日光東照宮に鶴と亀の像があるのですが解読するとよがあけて日が昇り、鶴と亀の像の陰が指す場所となります。
実はそこには徳川家のお墓があるのです。

「後ろの正面だあれ」
徳川家のお墓の後ろには祠があり、上の三角形が欠けた六芒星の紋章があります。
その祠の下に徳川埋蔵金があると囁かれているのです。
実際地質学上の調査では土や石ではない何かが埋められているという調査結果が発表されました。

このような情報は政府機関ももちろん把握しているがあえて掘り起こさないらしい。

なぜかというと日本の歴史が大きく変わってしまう内容がそこには眠っているからだそうです

まとめ

私の見解ですが、全てを調べてみて服部半蔵=松尾芭蕉説は、かなり濃厚なのかなと思っています。

同一人物なら本の内容についてのたくさんの矛盾点や共通点も納得できます。

調べていけばいくほど、やはり同一人物なんだ!となんだか嬉しいというか、わくわくする気持ちがこみ上げてきました。

本当にそうであったら素敵だなという感覚。

どちらにしても埋蔵金の話も含めてロマンがありますよね。

歴史の話はこのような話がたくさんあるからこそ楽しいです。

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